Masuk……昨夜あったことについて、雪臣と話し合っていない。けれど、今朝の様子を見て、彼が昨夜の行動について、ものすごく悔いていることは痛いほど伝わってきた。それだけで、珠希にとっては十分に思えた。傷つけられたわけではない。
蒸し返さずに、これまで通りでいることを選んでしまった。それで良かったのかは分からない。 ――雪臣くんとなら、この一年、協力しあえると思う。 それでも、あの言葉は嘘ではない。 + + + 今朝のHIMURO MOTOMACHIは、いつになくざわついていた。 珠希と雪臣の入籍が、社内に知らされたのだ。 瀬原が運転する車で会社へ向かう途中。社長室にも、氷室グループ各社や取引先から祝電や花が届いていると瀬原から聞いた。さらに、氷室家でも親族を集めた祝賀の席を調整していると、雪臣が言っていた。 挙式は、氷室百貨店の周年記念を控えて多忙であることを理由に、先送りにしている……しかし、本当の理由は別にある。 一年後には終わる結婚のために、式を挙げるわけにはいかない―十一月二十五日。 渋谷シカクイのメインアトリウムに、各社のブライダルジュエリーが並んでいた。ドレス店の展示を挟み、奥には写真館の相談席もある。客は一つの店で決めなくても、館内を回って品を比べられる。 「開店まで十分です」 秘書から報告を受け、直人はスマートフォンを取り出して時刻を確認する。その下に表示されていたメッセージに既読をつけて、端末を再びジャケットへ仕舞った。 ――直ちゃん、ファイトだよ! えいえいおー! ルリカからの応援だった。 今週、妊娠八か月に入ったルリカは、体調を優先して今回の催事には同行していない。今朝出発前にルリカを抱きしめたとき、大きくなった彼女の腹越しに感じた子どもの胎動を、直人ははっきりと覚えていた。 九月下旬、ルリカがつないだ縁を足掛かりに直人が臨んだ商談は、実施を見据えた協議へ進んだ。一歩前進したことに変わりはない。けれど直人にとっては、まだそれだけの小さな進歩だった。 その後、シカクイの担当者がINUIのショールームを訪れ、費用と参加店舗の調整を始めた。 ここからが、本当の戦いになるはずだった。 氷室の周年記念企画が始まる来年四月より前――三月までに企画をねじ込もうと、直人が各部長を動かし始めた十月一日。シカクイ側の上層部から、十一月下旬にフェアを開催できないかというオファーが入ったのだ。 ――いくらなんでも早すぎないか。 直人は秘書を通じて、シカクイ担当者に、会場と人員の確保が間に合うのか確かめた。冬の販促用に押さえていた枠を使える、館内の店舗にもこれから話を通す、という回答だった。もともと進行中だった類似企画に穴が開いたのか。しかし、類似企画が十一月に行われるといった内容は、シカクイ側の公式情報では告知されていなかった。 つまり、なぜそこまで急に話が進んだのか、納得しきれていないところがあった。 ただ、決まった日を変えられないなら、間に合わせるしかない。 ――できない理由はいらない! 間に合わせる根性を見せろ! 企画の確定から今日までの約二か月間、何度、社員を怒鳴りつけたか分からない。 珠希
氷室百貨店・本店会議室。 百貨店側との周年記念企画の打ち合わせを終え、ほかのHIMUROの担当者たちは展示備品の確認を続けるため会議室に残った。 今日の会議で二人が受け持っていたのは、珠希が『環愛』の説明、雪臣が展示方針の確認までだった。用件が終わり次第、二人は先に会議室を出て、帰社するため、瀬原が車で迎えに来るのを待つことになっている。 「お先に戻ります」 珠希は残る人たちに頭を下げ、雪臣と一緒にエレベーターへ向かった。 初めて展示場所を見に来たときは、まだ商品化が決まっていなかった『環愛』。今日はその担当者として、実際の展示に向けた話をしてきた。エレベーターの鏡に映る自分を見て、少しだけ背筋を伸ばした。 正面玄関を出ると、風が頬に当たった。十一月に入って、日が傾くのも早くなっている。 「もう、かなり寒いね」 思わず肩をすくめた珠希の隣で、雪臣がスマートフォンを見た。 「瀬原から」 「どうしたの?」 「渋滞で、十五分ほど遅れるそうだ」 「そっか。じゃあ、中で待ってようか。ここ、風が通るから寒いもんね」 雪臣は頷くと、杖の向きを変えた。二人は百貨店へ引き返す。クリスマス商戦が始まった館では、入口がゴールドやシルバーの華やかな電飾で彩られ、名物の高さ七メートルのクリスマスツリーが来店者の足を止めていた。 百貨店に入ってすぐの雑貨売り場では、冬の食卓を飾る食器の特設販売が行われている。 湯気の立つ飲み物のPOPを見て、珠希はふとあることを思い出した。 「あ、そういえば」 「どうした」 「雪臣くんのマグカップ、私が使っちゃってるよね」 珠希が今使っているマグカップは、もともと雪臣が使っていたものを譲ってもらったものだ。紅茶用のティーカップは別にあるが、雪臣は今も毎朝、グラスで冷たい飲み物を飲んでいる。 珠希は棚に並ぶ色を見回した。 「寒くなってきたし、一つ買っていこうか」 「あぁ、そう言えば、そうだな」 「瀬原さんが来る前に選ぼう」 少し先に、取っ手の丸いマグカップが並んでいた。シンプルな無地で、色は全部
土曜日の夕方、氷室家の本邸を訪れると、玄関には白い花が飾られていた。控えめな大きさながら、葉の向きまで美しく整えられている。玄関を上がり、三板に案内された食堂も、今日のために隅々までしつらえられていた。 白いクロスの上には、縁に細い金彩を施した皿と磨かれた銀器が並び、その間に秋の花が低く生けられていた。向かいに座る人の顔を遮らない高さだった。 上座には雪茂が座り、秋夫と日美呼、悠乃介も席に着いている。珠希の隣には雪臣が座った。親戚を招いてのお披露目ではなく、今夜は家族だけで二人をゆっくり祝いたい――雪茂の望みで設けられた席だった。「改めて、二人の結婚を祝おう」 雪茂がグラスを上げた。 珠希もグラスへ手を伸ばしかけ、ふと動きを止めた。シャンパンの細かな泡が、絶え間なく立ち昇っている。直人と結婚し、妊活を始めてから、酒の入ったグラスに触れることは長らくなかった。 ――そっか。もう、飲んでもいいんだ。 隣の雪臣と目が合った。彼は何も言わず、珠希がグラスを手に取るのを静かに待っていた。「ありがとうございます」 珠希は隣の雪臣とグラスを合わせた。ほかの席でも、控えめな音が続いた。 家政婦たちによって温かい前菜が運ばれ、食事が進むころには、使い終えた皿が静かに替えられた。「いやぁ、本当にめでたい! しかも新しい指輪の商品化まで決まったそうじゃないか!」 珠希に向けて、秋夫が嬉しそうに言った。「ありがとうございます。私だけではここまで来られませんでした。雪臣さんや、先輩たちにも、随分助けてもらって」「それでも、最初に作ったのは二人だろう」 雪茂は、珠希と雪臣の左手へ順に目を向けた。「あの日、これは二人がこれから身につけていく指輪だと言ったな。その思いが、今度はほかの人にも届くのか」「大切に育てていきたいシリーズです」 雪臣がそう答えると、雪茂は目を細めて「そうか」と頷いた。「格式あるHIMUROにふさわしく、長く顧客に愛される商品にしてくださいね。育てる前に終わってしまっては困りますから。雪臣さん」「はい」 日美呼に名を呼ば
商品企画本部長の承認が下りれば、『環愛』の商品化が決まる――。 氷室百貨店を見学してから数日後の金曜日。珠希はブライダル部門の打ち合わせスペースで、提出済みの資料をもう一度めくった。そこには、修正を重ねた基本形と、選べる幅や仕上げ、価格と納期の目安、将来のサイズ直しに対応できる範囲も記してある。 デザイン部長の岸部はデザインと制作工程を確認し、ブライダルデザインチーフの不二子は売場で扱えるかを見た。指摘された箇所を珠希が直し、ようやく最終決裁まで辿り着いた。 もう、今から直せるものはない。それでも気になってしまう。「見すぎよ。紙に穴が開くわ」 向かいに座っていた不二子が、腕時計をちらりと見た。十七時四十二分。今日も十八時になれば、きっぱり帰るつもりらしい。「不二子さんにいただいた店頭の相談例、すごく助かりました」「だって、そのためにまとめたんだもの。そもそも、あなたの案がなきゃ、存在すらしなかった資料よ」 不二子は机上の二本の試作品を指で示した。 異なる形のリングを、同じ形に揃えることなく対として選べる。珠希と雪臣のために作ったマリッジリングから、考え方だけを受け継いだものだ。 最初の二本を不二子に見せた日、サイズ直しについて問われ、珠希は答えに詰まった。目の前の試作品には、そのとき出せなかった答えも形になっている。「やっぱりねぇ、ブライダルは特にだけど、難しいのって、お客に選んでもらう瞬間だけじゃないと思ってる」 ふと、不二子が試作品を眺めながら、呟いた。「サイズ直し、ですよね」「あ、まぁ、それもあるわ。けど、それだけじゃなくて。十年前に買った指輪を持ってきたお客がいてね。傷だらけになったから、綺麗にしたいって」「磨き直しですか?」「そうよ。でも、その人、傷を全部消してほしいわけじゃなかったの。真ん中にある一本の深い傷だけは残してほしいって」「どうして……」「ご主人と初めて本気で喧嘩して家から飛び出したときに、塀にぶつけてできた傷なんですって。今となっちゃバカみたいな話だけど、それも含めて夫婦の歴史、なんて笑ってたわ
珠希と展示予定の場所を見たあと。氷室百貨店を出た頃には、時刻は既に十二時を回っていた。 三十分ほどで切り上げるつもりだったが、予定外に火野に話しかけられ、少し時間が押している。それでも雪臣はHIMURO本社へ直帰するつもりはなかった。 百貨店前のタクシー乗り場に並びながら、雪臣が口を開く。 「タマ。来週の土曜日だが」 「ん?」 「祖父から連絡があった。結婚祝いの席を設けたいと」 順番がきて、目の前に一台のタクシーが停車した。いつものようにユニバーサルデザインタクシーを手配したわけではない。回ってきたのは、狭いセダンタイプだった。 「あ、前に話していた祝賀……うん。土曜日は私、予定ないよ。楽しみにしています、と伝えてくれる?」 「分かった」 後部座席のドアが自動で開く。すると珠希が何も言わず先に乗り込み、車内の奥へ詰めた。 雪臣は一瞬だけ足を止めた。 これまで、たいてい『どうぞ』と上座を譲られてきたからだ。社長や氷室の長男という役割がある以上、何もおかしなことではない。ただそのたびに断って、相手を先に通すという短いやり取りが生まれた。 足が悪いからだ。 日常の端々で、ビジネスマナーよりも優先しなければならないことがある。ドア側でないと、乗り降りするのに苦労した。それを説明するのはもっと苦になった。 「…………」 珠希は、ただ当たり前のように、雪臣が過ごしやすい側を空けてくれた。 雪臣が座り、ドアが閉まる。 ――帰りに、シュー、買ってくるね。今日。 あのときと同じだった。大げさな親切ではない。けれど、こちらが気まずい思いをしないよう、さりげなく気を配ってくれる。そんな珠希のやさしさに触れるたび、胸が高鳴るのだ。雪臣は運転手に向かって、小さな声で行き先を告げた。 「代官坂の手前まで」 「はい、かしこまりました」 車が走り出すと、隣の珠希が「本社前じゃないの?」と首を傾げた。雪臣は何も答えられなかった。 ――休憩を挟んでから帰社する。 瀬原にそうメッセージを送ろうとするが、スマートフォンを持つ指が震え、何度も打
10月の連載予定日月~土曜日/21時37分(日本時間)頃/各1話ずつ日曜日はお休みです。ぜひ、お楽しみくださると嬉しいです。花絵 ユウキ